JIN−仁−最終回

グレープフルーツ好き♪

録画してた「JIN−仁−(完結編)」の最終回を、遅れ馳せながら観ました。どうして4年近くもあっちにいて、仁さんの髪の毛が伸びないのか(現代に帰って来た時の為かと思ってましたが、着物が洋服に戻るなら関係ないですよね!)なぁとか、辻褄合わせを研修医に手っ取り早く説明させちゃったりとか、突っ込みたい所もあったんですが、全体的にやっぱり秀作だったと思います。(*^-^*)
仁友堂のモデルは順天堂で、屋上をはじめ、現代の仁さんが勤めている東都大学附属病院のロケも順天堂大学医学部附属順天堂医院で行われたとか。だから、順天堂の「順」は松本良順の「順」だと思っていました。でも、良順がまだ順之助と名乗っていた11歳くらいの時に、良順の実父である佐倉藩藩医の佐藤泰然が、日本橋薬研堀蘭方医学塾を佐倉に移して、「和田塾」から「順天堂」と改名したもので、中国古書にある「天の道に順う」の意味なんですってね。。。
関係ないんですけど、ダンナも字は違いますが「JUN」という名前なのです。で、実家の内科小児科医院を継いでいる上のお兄さんは「泰●」さん。医師の家系には「じゅん」とか「泰」とか付く名前が多いんですかね? ええと。ダンナの先祖には、明治維新後の1874年に制度導入された医師免許の番号がシングル・ナンバーという人もいますし、地元ではわりと有名な幕末の蘭方医もいます。その人は、天保6(1835)年に儒学者・村上仏山が開いた私塾で、優れた政治家・学者・名僧・医師を多く輩出したという「仏山塾(水哉園)」で学んでいたそうです。松本良順先生やタイムスリップした南方仁先生とも、江戸か長崎かどこかで出会っていたかもしれません。(^-^)vv
私の実家の先祖は直参旗本で、仏壇の過去帳には、慶應4(1868)年に亡くなってる二人の彰義隊士の名前があります。親戚には新撰組隊士も二人ほどいた(一人は養嗣子なので血縁はない)そうです。ので、個人的には仁さんや龍馬さんより、栄さんや恭太郎さんの橘家の人々、特に恭太郎さんに感情移入して「JIN−仁−」を観ていました。話は松本良順先生に戻りますが、御存じの通り良順先生は幕府の将軍侍医で、新撰組近藤勇土方歳三とも親交があり、二人の供養塔を二番隊組長であった永倉新八に請われ建立したことでも有名で、当時、新撰組隊士の診療も行っていました。戊辰戦争には幕府方の軍医として従軍し、会津戦争後に仙台で降伏されますが、私の先祖の誰かが良順先生の診察を受けていたかもしれません。ダンナの先祖と私の先祖が良順先生で繋がっていたかもしれない思うと、ドラマも感慨一入ですワ。(*^-^*)O型だけど短絡的♪
さて、またまた関係ありませんが、母方の先祖が山形の志田氏だと以前申しました(2010-09-15)が、その山形に「順天堂」と「仁友堂」の混血のような病院を見付けました。その名も「順仁堂・遊佐病院(HP)」です。順天堂を作った佐藤泰然の父・佐藤藤佐(さとうとうすけ・なんてウィットに富んだ名前!)、つまり良順先生のお祖父さんは、この病院のある山形県遊佐郷・升川の出身で、この病院の創始者で「日本点字音譜の祖」と言われる佐藤国蔵医師(現在の院長も佐藤氏)は、文久慶應年間に佐倉の順天堂で、順天堂二代目佐藤尚中先生や良順先生に師事したといいますから、親戚にあたるんだと思われます。「順仁堂」は「順天堂」から付けたんでしょうが、平成の世にこんなドラマが出来るとは、流石の佐藤国蔵先生も思いも寄らなかったことでしょう。(`ー+´)
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