会津

頂いた佐藤錦♪

あぁああああ、暑い。玄関網戸を取り付けて風を通し、扇風機で我慢しているが、打ち水なんか瞬間蒸発である。血液まで沸騰&蒸発してしまいそうだ。。。日本は温暖湿潤気候から熱帯雨林気候になってしまったのか? だったらだったで、毎日スコールでも降ってくれればいいのに! 被災地の方々や、お年寄りが心配だ。(T^T)*sobs*
先日、山形の順仁堂・遊佐病院の創始者・佐藤国蔵先生は、松本良順先生のお祖父さん・佐藤藤佐氏が山形県遊佐郷・升川の出身であることから、親戚筋だろうと述べたが、山形には日本一多い「佐藤」さんが、日本の中でも極めてすごく多いらしい。そう言えば山形県のブランドさくらんぼ「佐藤錦」↗も、佐藤栄助さんという人が生みの親(sauce:(有)佐藤錦HP)だそうだ。ううん。親戚ではないかもしれない。が、かなり近しい人ではあったろうということで…(笑)
その山形は米沢の初代藩主は我らが上杉景勝さまだが、景勝さまが会津の領主であった時に天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発。景勝さまの替わりに初代会津藩主となったのが、三代将軍家光の異母弟・保科正之公(長女媛姫は景勝さまの孫・上杉綱勝正室)。

松平容保―悲運の会津藩主 (人物文庫)

松平容保―悲運の会津藩主 (人物文庫)

松平容保は朝敵にあらず (中公文庫)

松平容保は朝敵にあらず (中公文庫)

敗者から見た明治維新~松平容保と新撰組

敗者から見た明治維新~松平容保と新撰組

時代はグーンと下がって幕末。。。松本良順先生が従軍した会津戦争当時の会津藩主は、↑元京都守護職会津中将松平肥後守容保(Wikipedia)さま。藩祖保科正之公の「大君の義、一心大切に忠勤を存すべし。列国の例をもって自らを処るべからず。もし二心を懐かば、即ちわが子孫にあらず。面々決して従うべからず」という遺訓を守り、ヘタレな宗家・徳川慶喜松平春嶽が戦線離脱した後も、一人、最後まで徳川家への忠誠を貫いた。細面の美男子で、新撰組が容保さま御預りだったこともあり、東軍贔屓の私はこの人が幕末の人物の中で一番好きなんである。(*^-^*)

 

↑の二枚の絵を観て欲しい。どちらも幕末から明治初期にかけての絵師の作で、左は落合芳幾の太平記英勇傳の六十八「會津黄門景勝」、右は月岡芳年の魁題百撰相「会津黄門景勝」である。「黄門」といえば水戸の黄門様だが、黄門とは日本の中納言唐名であり、景勝さまの官職が中納言だったからであるが、何故に明治初期に戦国武将の上杉景勝さまの武者絵がたくさん描かれたのか? それは、明治新政府に遠慮して、会津中将松平容保さまのことを会津中納言上杉景勝さまとして描いたからなんだそうだ。
それにしても、一つの時代が終焉を迎える時、会津(福島)が次の時代の権力者の標的&犠牲となるのは何故なのか。。。現在の福島の災難は、次の時代の幕開けを意味しているのかもしれない?(¬ε¬)
Sea Monkey ^_~*