久方のひかりのどけき春の日に

今は無きK市の駅舎

しづ心なく花のちるらむ…。
私は都内でも桜の名所と呼ばれるK市に住んでいるので、毎年いながらにして花見が楽しめるのだが、職場の病院にも桜が多い。そう言えば大きな霊園や古戦場にも多いよね。何故なのだろう? 桜の下には死体が埋まっているから? まぁ、学校にも多いケドね。(笑)
            
            
↑上は職場その1、世田谷区はK病院の桜。ここは昔、最近また芸No人の感染で有名になった肺結核サナトリウムだったらしい。TB(テーベー)の病院は、小高い丘の上やひっそりした海岸近くにあった。だから駅からの上り坂道が結構キツイ。でも、満開の桜が出迎えてくれると思えば、この季節はそう苦ではなくなる。で、↑下が職場その2、飯田橋は東京KN病院付近の桜。通院途中の総武線の車内からも、線路脇の土手やお堀端の桜が楽しめる。(*^-^*)
     
            
            
日本人は本当に桜が好きだ。桜は、特に散り際は、何か神秘的というよりはもっと荘厳で宗教的な感じすらする。江戸末期の新種だろうがなんだろうが、桜はやっぱり「染井吉野」である。「離れ離れに散ろうとも 花の都の靖国神社 春の梢に咲いて会おう」と「同期の桜」を歌って散った特攻隊員が思い浮かべたのも、染井吉野だったに違いない。散華というのは元来仏教用語だが、戦時中、特に特攻隊員が若い命を散らすのを桜に擬えて「散華」と言ったそうだ。だからだろうか、桜が散るのは美しいがどこか哀しみを含んでいる。冒頭で書いた「桜の下には死体が埋まっている」という民間伝承は、西行法師の「願わくは花の下にて春死なん その如月の望月の頃」を元にしたお能の「西行桜」から来ているらしいが、「桜」と「死」には何故か密接な関係があるように感じるのは、ただそれだけではない様に思う。
さて、今日は天皇皇后両陛下の御成婚50周年だ。朝から各局が流している映像の美智子様は、本当に美しい。ご成婚パレードの時よりも、母となられて少しほっそりしてからの方が儚げで、たおやかさと気品とが更に際立ち、桜の精かと見紛うような美しさである。「一般の家庭から嫁いだ」な〜んて仰るが、トンデモナイ。正田家は大実業家だ。奈良時代聖武天皇の皇后となった光明子以来多くの皇后を輩出し、公家の頂点である五摂家を築いた藤原氏にしたって、元は有力な民間人に過ぎなかったんだし、大実業家だって似たようなものである。しかも、大正天皇まで何代にもわたって皇后でなく女官さんなど側室の子が天皇に立っている。決して「一般の」と卑下するようなお家柄ではない。苦労知らずの、しかし聡明なお嬢様が、それこそ降るようにあったであろう一生のほほんと幸せに暮らせる縁談を断って、皇太子妃という茨の道を選んだのは何故なのか? それは20世紀最大の謎である。(笑)
どんな世界においても、パイオニアとなる人は偉大だ。二番目の人は二番目でしかない。金婚式に、陛下から「長年の努力を嘉(よみ)しての感謝状」を頂いた皇后様…。覚悟を決めて日本一の旧家に嫁いだからには、皇室祭祀や養蚕(古代において皇后は織姫であった)などの伝統を護りつつ、果敢にそしてしなやかに古い慣習を改めて来たその努力…。申し訳ないが、今の皇太子妃殿下にはその努力と、そもそものお覚悟が、美智子様に比べて格段に足りないと私は思う。50年も連れ添いながら、「陛下」と口にする時、恭しくも自然に会釈する美智子様の敬愛に溢れた所作…。一般の夫婦にも言えるが、努力の不足は即ち相手への尊敬と愛情の不足だと思う。
私が好きな美智子皇后の言葉に、「誰もが弱い自分というものを恥ずかしく思いながら、それでも絶望しないで生きている。そうした姿を互いに認め合いながら懐かしみ合い、励まし合って行くことができれば…と、そのように考えて人と接しています。」というのがある。なんという謙虚な精神だろうか…。
私は日本有数の一流企業と呼ばれる会社で、総合職として男性と肩を並べて働いていた。当時は自信過剰な、実に鼻持ちならない女だったと思う。だがある日気が付いた。「自分はナンボのモンでもない」ってことに…。ふと周りを見たら、そろそろ若さを失ったお一人様予備軍の先輩達が、「自分はこの会社の歯車どころかネジ釘一本でもない」と気付いて壁にぶち当たり、次々と壊れて行ったからだ。彼女たちと私に決定的に足りなかったのは、この謙虚さであった。大会社の旗を振り振り大きな商談も纏めて来たけれど、顧客は私を見ていたんぢゃない、大会社の旗だけを見ていたんだ…。あぁ勘違い! 壊れっぷりは人それぞれだったが、根拠のない過大な自信を持ったが為に、自分の凡庸さに気付くのが遅れた人ほど激しかったように思う。だが、同期の男性陣は労わってもくれない。女性といえど、蹴落とすべき仕事上のライバルだからだ。当然、恋愛感情など育たない。あぁ、恨めしきは男女雇用機会均等法。この奇怪均等法こそが、日本の女性から謙虚な精神や愛されるべき女らしさを奪い、男性からは仕事を奪い、男性の尊厳を奪い、女性への労わりの心を奪って少子化に拍車を掛け、しかも男性の収入だけでは足りずに共働きでしか子育て出来ないワーキングプアを生んだのだ(と私は思っている)。
常人には計り知れない偉大なことを成し遂げながら、決して驕らない美智子様。「内助の功」とよく言うが、女性が女性としての本分を尽くしてこそ、有るべき夫婦の姿、延いては有るべき社会の姿になれるのではないだろうか? この皇后様の謙虚な精神こそ、今すぐ現代日本女性が見習わなければならない大切な事の一つだと思う。女性の社会進出上等!ですが、本当に優秀な人の専門職だけでいいぢゃないですか? 凡庸な人まで巻き込んだ雇用奇怪均等法は、日本の風土に合わないと思うのですよ。マジで。(笑)
皇后様はまた、「皇室は祈りでありたい」とも仰った。少し意味合いが違うかもしれないが、私には皇室は「願い」であると思える。こうありたいと願う女性像・夫婦像・家族像。美智子様は正に「聖母」だと思ってしまった。「国母」という言葉もあるが、国母には長い天皇家の歴史の中で天皇を産んだというだけでなって来た女性達も多いことだろう。だから、美智子皇后には「国母」よりも「聖母」という言葉がしっくり来るように思う。上っ面の美化された部分だけ観ていると、笑って下さって構わない。だけど私は、「夕焼けはどこか母に似ている」と詠まれた黒田清子さんと皇后陛下の美しい母子関係が、ホントにホントに好きなのである。畏れ多いが、美智子様に亡くなった母の面影を重ねてしまっているのかもしれない…。とにかく私は、美智子皇后の大ファンなのだ! そして自他共に認める「ソフト皇室フリーク」でもある。だがそれは、桜を愛でたりWBCやオリンピックで日本選手を応援したりする、健全なナショナリズムだ(と私は思っている)。
Sea Monkey ^_~*