いつくしみ深き♪

若田さんの始球式

昨日、若田さんが宇宙から始球式を行った東京ドームに、私たち夫婦はいた。ダンナの高校時代の友人で、Y新聞大阪本社の方がネット裏のチケットを送って下さったのだ。ダンナが阪神ファンだと知るその方は、なるべく三塁側の席にして下さった。だがそんな御配慮も必要ないほど、昨日の東京ドームは阪神ファンの黄色で溢れていた(笑) 結局、延長戦の末、引き分けに終わってしまったが、いい試合だった。盛り上がったよ〜! 六甲颪
            
で、何故題名が「いつくしみ深き」かというと、若田さんを見て「星の界」の歌詞を思い出したからだ。川路柳虹の「星の世界」の方が有名だが、「新しい朝が来た 希望の朝だ♪」に勝るとも劣らないほど、「きぼう」にいる若田さんにぴったりの歌だなぁと思ったのだ。この二曲は、結婚式によく使われる賛美歌312番「いつくしみ深き」と同じ曲なのである。
私がこの賛美歌を最初に聞いた(というか歌った)のは、友人の結婚式。友人みんなが知ってる略奪婚で、新郎側はご両親さえも欠席という異様な雰囲気の中で歌われたので、「罪科(つみとが)憂いを 取り去り給う〜♪」と来た時には、この日の為にあつらえたのかと思ったほどだったが、、、聞き覚えのある曲にビックリしてちょっと調べてみたというワケ。(笑)
実際は、心の嘆きを包まず述べさえすれば、「憂い」まではいいケド、なんの贖いもなく「罪と科」まで取り去ってはイケナイと思うのだが、三番の歌詞は好きである。。。

      いつくしみ深き友なるイェスは 変わらぬ愛もて導き給う
      世の友我らを捨て去るときも 祈りに応えて労(いたわ)り給わん

神様は、こんなどうしようもない私だって変わらずに労わって下さる。アメリカ第二の国歌と言われる賛美歌「アメージング・グレース」の歌詞を思い出す。先日来、「皇室は祈りでありたい」という美智子皇后の言葉から、祈りと信仰についてチト考え続けている。皇后様の言葉はどこか賛美歌に似ているように思う。「友なるイェス」というフレーズが、子供相手にでも跪いて視線を相手の高さに合わせる美智子皇后の姿勢に似ていると思った。だからこそ、「聖母」と感じたのかもしれない。昔はちょっと罪人のご都合主義が垣間見えるな〜っと思っていた賛美歌だが、神はどんな罪人に対しても無条件に愛を持って導いて下さるという言葉は、戦いに明け暮れて来た欧米の人達にとって、絶対的な救いとなって来たのだろう。だからこそ、イエスを唯一無二(三位一体もあるが)で万能の存在と考えて、無条件に丸ごと信じて救いを求める信仰の形を取って来たのだと思う。「信じる者は救われる」、どんな時も「祈りは通じる」のである。キリスト教には「畏れ敬う」の中の「畏れ」があまりないように思う。あくまで私の主観だが、悪いことしてもお仕置きが少ないように思うのだ。宗派によっても違うのだろうが、こうなるぞという戒めよりも、見捨てずに許して下さるという安心感で出来ているというか…。「七つの大罪」とか「煉獄」とかの概念はあるが、懺悔すればどの程度までの「罪や科」を取り去って貰えるのかはその人の主観の問題によると思うし、事実、現代人は七つの大罪の殆どを犯しているが、地獄に堕ちるほど悪いことではないという観念が既にあると思う…。
「信仰」ってなんだろう? 直訳すれば「信じて仰(あお)ぐ」こと。仰ぐは「師と仰ぐ」のあおぐだ。単に「見上げる」とか「尊敬する」とか色々意味はあるが…。仏教学者の佐々木閑氏は、仏教は信仰ではなく釈迦に対する「信頼」だと言う。釈迦は決して超人ではなく、ただ常人よりも優れた智慧があって、イエスのような超越者がいない世界で、生の苦しみに打ち勝つ道があることを独力で見付け出し、それを私たちに伝え残してくれた人であると…。釈迦に「助けて下さい」と祈るのではなく、釈迦が説いたその道を「信頼して」自ら歩んで行くのが仏教だと…。それには、その「道」がどんな道なのかを知らなければならない。庶民には小難し過ぎるというのでお題目を唱えるだけの宗派もあるが、大乗仏教である日本のどの宗派も概ね「求道心」を大切にしていると思う。「信じて頼る」。佐々木氏の考え方は仏教界では少数派というか邪道なのかもしれない。でも、母方の祖父が僧侶で親戚にも僧侶が多いSea Monkeyめには、どうもこちらの考え方の方がシックリ来るな。やっぱり。(¬ε¬)
ただ、美智子様の言葉で、絶対的な無償の愛がこの世にも存在するのではないかと、ちょっぴり(おい#)信じられるようになった。とにかく私たちは、何かを信じて自ら歩んで行かなくては、生の苦しみに打ち勝てないというのは、真実なようである。
Sea Monkey ^_~*