なんだかねぇ(;^_^A)

豚ヒレのピカタ弁当♪

こんなにチャンネルが増えたのに、観たい番組がぜ〜んぜんない時間帯が多い気がします。BSなんか、どこも再放送とTVショッピングばっか、、、。地デジ化を機にTVとおさらばした方々のお気持ちが、よく分かりますワ。(¬ε¬)
福島県の子供の45%に甲状腺内部被曝が確認された(sauce:朝日新聞)そうで…。親の仕事とか学校の関係がありますから、戦時中のように強制疎開させるのは難しいでしょうが、なんとか対策がとれないものでしょうかね? 円高も止まらないのに、政治や復興そっちのけで個人的な権力闘争に明け暮れる、政治家と呼ばれるただの我利我利亡者たち。。。この先、日本はどうなってしまうんでしょう???(T^T)*sobs*
で、再び「平家本」読んでます。(;^_^A)現実逃避!

建礼門院右京大夫 (1972年) (日本詩人選〈13〉)

建礼門院右京大夫 (1972年) (日本詩人選〈13〉)

やっぱり資盛さま、かっこいぃぃぃいいいッ! 天真爛漫な17歳の貴公子から、世の騒乱の中で、たった数年で「大人」へと劇的に成長する平資盛さま。。。その的確な解説。。。父・重盛と祖父・清盛の死によって、平家の頭領の地位が宗盛に移ったことにより、小松家(重盛の家系)が平家一門の内部で微妙な立場になっていたことも、氏の解説で初めて知りました。宗盛は清盛の正妻・時子(二位の尼)の子。長男ですが、重盛の母は時子ではありません。そら〜、なさぬ仲の孫なんて、可愛くありませんよね。維盛兄さまや清経弟の自殺も、そんなこんなで追い詰められていたことも原因の一つだということです。そんな小松家の中で一人残された(もう一人の弟・師盛は一の谷で戦死)資盛さまの胸中は、如何ばかりだったことでしょう。それでも資盛さまは、一人で頑張ります。この頃、資盛さまは恋人・右京大夫に最後の手紙を出していて、「あるほどがあるにもあらぬうちになほ、かく憂きことを見るぞ悲しき(生きていることが生きていることにもならないこの世にあって、その上こんなに辛いめに合うのは本当に悲しいことです)」と、自殺した兄弟達への想いを詠んでいます。「平家物語」に、亡くなった父・重盛以来の小松家の家人でる緒方三郎惟栄(惟義、惟能とも)が裏切って、平家を九州から追い出そうと攻め寄せて来たと聞き、資盛さまが少数の親衛隊を引き連れて、勇敢にもその惟栄の本陣に乗り込み、説得しようとしたという場面が出て来ます。結局失敗し、海上に逃れた一門は屋島へ向いますが、その逃避行の途中で、一門の中での微妙な空気感のところへ、自分の家の家人が反逆したことに絶望した弟・清経が入水自殺してしまいます。そういうことを踏まえてそこを読むと、もぉねぇ、惟栄なんか本っ気で殺してやりたくなりますワ。o(>_<)o裏切り者ぉ###
あぁああ。「昔紫今右京」と謳われた七歳(諸説有り)年上の才女@建礼門院右京太夫をして、「わがありさまに似ず、いとなまめかしく見えし」とまで言わしめる程に夢中にさせ、彼が壇ノ浦で二十四歳で散った後、彼女のその後の人生を彼への供養と回想に捧げさせた、資盛さま。でも、こんな年下の恋人がいたら、右京大夫ならずとも、女なら誰だって一生引き摺ることでしょうねぇ。q(≧∇≦*)p
中村真一郎氏の書評や編書、古典評論や現代語訳は、
とりかえばや物語 (ちくま文庫)

とりかえばや物語 (ちくま文庫)

とか、今までもたくさん読んでます。(*^-^*)
草の花 (新潮文庫)

草の花 (新潮文庫)

夢みる少年の昼と夜 (新潮文庫 ふ 4-5)

夢みる少年の昼と夜 (新潮文庫 ふ 4-5)

の、福永武彦氏が中学時代からの親友だというのもドツボなんですが、中でも一番印象に残っているのは、私が夭折の美男子を好きになるきっかけとなった↓の解説でした。それは、立原道造について書かれた、「人間であるよりははるかに妖精に近いような雰囲気をあたりに漂わせながら、空中を飛ぶような身軽な歩き方で動き回っていた、建築家兼詩人のなかば少年のような面影。いつも半分真面目で半分は遊んでいるような姿。あの独特な含み笑い―――。」という文章です。。。高校生の夢見る乙女だった私が、即座に立原に魅了されたのは言うまでもありません。彼の繊細でなよやかな雰囲気がドツボだったんですね〜。後述の藤原敦忠の「逢い見ての〜」の歌を元にしたといわれる「のちのおもひに」という詩を残した、立原道造。「夢はそのさきにはもうゆかない」というフレーズが、彼の短い人生と相まってとても印象的ですよね。東京大学建築科卒の秀才。結核で二十五歳で夭折。。。で、以来長年、夭折の美男子漁り?を続けてきた訳です(笑)
実在人物かどうかは別にしても、日本武尊大津皇子有間皇子から始まって、何故か夭折した人に惹かれてしまいます。「夭折」とは、広辞苑によりますと「年が若くて死ぬこと。わかじに。」とあります。志し半ばで倒れた人が好きだなんて、なんだか悪趣味みたいですよね? でも、老いを知らず、瑞々しく美しいまま生き急いで亡くなったと聞くと、凝縮されたその人の短い人生が、より一層の輝きを放つように思えるんですよね〜。(*^-^*)
やっぱり一番は、我らが平資盛さまですね〜。もちろん、維盛兄さまも敦盛さまも好きです。それから、「君がため惜しからざりし命さえ」の歌で有名な、大鏡に「容貌が類なく美しく、末代までもこれほどのお方が現れるのは難しかろう」と書かれ、流行り病で二十歳で散った、後少将藤原義孝さま。。。な〜んと、この人、建礼門院右京大夫さんの直接のご先祖なんですよ〜。右京さんもきっと美人だったことでしょうネ。(^-^)vv
資盛さまと義孝さまのお二人が、私の中の「夭折の美男子」の二大巨頭ですが、お二人の共通点はなんといっても希代の「貴公子」。かといって浮ついてなよなよした所がなく、義孝さまは風雅でお洒落な貴公子でありながら、法華経に帰依して結構ストイックな生活してますし、資盛さまは、箏の上手であり、歌下手な維盛兄さまと違って「新勅撰集」にも歌が採られている歌人でありながら、心弱い兄や弟の自殺を乗り越えて、小松家として一人、最後まで勇敢に戦い抜いた武将ですからねぇ。 q(≧∇≦*)p
そしてそれから、「逢い見ての後の心にくらぶれば〜」の歌で人気の、権中納言藤原敦忠さま。38歳没というのは夭折というには微妙なラインですが、端麗な才子である藤原時平を父に、在原業平の美貌の孫娘を母に持つのだから、「形有様美麗」ぢゃない訳がないッ! 加えて、「敦忠卿の存命中は、博雅ごときが管絃の席で持て囃されるなんて考えられなかった」と宮廷人にぼやかせたほどの、天才と言われた(「陰陽師」で有名な)源博雅三位も形無しの管絃の名手。美貌な上に歌と管絃の名手。さしずめ平安時代のアイドル・ロック・スターというところでしょうか?(^-^)vv
あぁぁあああ。ごめんなさい〜、景勝さまぁぁあああッ! 景勝さまは乱世を生き抜いて、満67歳の天寿を全うされたのでしたよね。。。そういう地道な景勝さまに魅かれるようになったということは、私が文字通り大人(つかオバサン)になったということなんでしょうか…。(;^_^A)
Sea Monkey ^_~*